新検見川プラザ | 個別指導のZ-NET SCHOOL(ゼィーネットスクール)

お問い合わせ
0120-86-4330

ご質問・ご相談受付中 携帯電話からもOK

Z-NET school 新検見川プラザ 塾便り 2024年4月

Z-NET school 新検見川プラザ 塾便り

2024年4月

 

みなさん、ご入学・ご進級おめでとうございます!

新しく始まる学校を楽しく充実したものにしていきましょう。

今年度もどうぞ宜しくお願いします。

さて、この時期になると通学路の桜も満開となり美しい光景が広がります。行楽地では「お花見」が行われるようになり、春の楽しみとしている人も大勢います。この「お花見」という習慣はいつからあったのか、今回はそのお話をしていきましょう。

 

「お花見」の期限は奈良時代(710年~794年)にさかのぼります。

もともとは中国の風習で、梅の花を楽しむ花見が行われていました。当時は遣唐使による中国との交易が盛んに行われており、梅の木が中国から日本にもたらされ、日本の貴族たちがその花を見て、歌を詠んだり、鑑賞したりして楽しんでいました。

つまり、最初のお花見は、梅の花を見るものだったのです。

平安時代に入ると、貴族たちはしだいに日本古来からある桜に対して親しみを感じるようになりました。桜の下で宴を開催している様子は「源氏物語」にも描かれ、平安時代に編纂された「古今和歌集」でも春の歌として桜を詠んだ歌が多く残されています。

812年には嵯峨天皇が初めて宮中行事として桜の花見を開催しました。嵯峨天皇はとても桜が好きで、毎年のように桜を献上させていたそうです。

831年になると、花見は天皇主催の定例行事になりました。そのため、貴族の間にも桜の花見が広まり、貴族たちの家の庭には桜の花が植えられるようになったということです。

 

鎌倉時代に入ると、貴族だけの風習だった花見が武士たちにも広がっていきます。

武士たちは都から離れた場所にも住んでいるので、全国各地で花見の宴が催されるようになりました。そして、この頃から花見の内容が変化していきます。

貴族たちの花見は、歌を詠んだり蹴鞠をしたりというものでしたが、武士たちの間で行われた花見は、お酒を飲んで宴会を行うというものでした。

いわゆる現代の花見に近い「どんちゃん騒ぎ」型の花見が確立されていったわけです。

 

一般庶民が花見を楽しむようになったのは、更に時代が進んで江戸時代になってからといわれています。徳川幕府や各地の武将たちが花見を奨励し、庶民の間にも花見の習慣は広まっていったようです。

中でも江戸幕府8代将軍の徳川吉宗は、庶民が桜を楽しめるような場所をいくつもつくりました。隅田川や飛鳥山に大規模な植樹を行い、庶民が気軽に桜を触れ合えるような場所を提供したのです。そこは現在でも桜の名所として、多くの花見客で賑わう人気スポットとなっています。

東京における桜の名所の基礎は吉宗によって作られたといっても良いでしょう。

 

現在、全国各地で楽しまれている花見も、発祥は奈良時代までさかのぼり、梅の花も愛でていました。貴族の楽しみが、やがて武士や農民へと広まり、江戸時代には多くの桜が改良されています。

明治以降には戦火をくぐりぬけ、植木職人や研究者などの手によって各地へ桜並木が広がり、今では全国で桜を楽しむ事ができます。

そして子どもたちの卒業や入学を彩るものとして、学校にも欠かせないものとなった桜。

桜に対する日本人の思いや花見の歴史を、多くの方に知ってもらえると良いですね。

Z-NET SCHOOLは、

こどもたちの「新生活」を応援しています。